「悠〈ゆう〉兄ちゃん、泣いてるの?」
夕焼けに赤く染まった公園。
ベンチに座り、肩を震わせている男に少女が囁く。
「悠兄ちゃん寂しいの? だったら小鳥〈ことり〉が、悠兄ちゃんのお嫁さんになってあげる」
そう言って、少女が男の頭をそっと抱きしめた。
* * *3月3日。
終業のベルがなり、作業を終えた彼、工藤悠人〈くどう・ゆうと〉が事務所に戻ってきた。
「お疲れ様でした、悠人さん」
悠人が戻ってくるのを待ち構えていた、事務員の白河菜々美〈しらかわ・ななみ〉が悠人にお茶を差し出す。
「ありがとう、菜々美ちゃん」
悠人が笑顔で応え、湯飲みに口をつける。
その横顔を見つめながら、菜々美が深夜アニメ『学園剣士隊』について話し出した。感想がしっかり伝わるよう、一気にまくしたてる。「やっぱり悠人さんの言ってた通り、生徒会が絡んでるみたいでしたよね。最後のシルエット、あれって生徒会長ですよね」
悠人に心を寄せる菜々美にとって、悠人と話せる昼休み、そして終業後の僅かな時間は貴重だった。
工場主任で、作業が終わってから書類整理の仕事が残っていると分かってはいるが、限られた時間、少しでも悠人と話したいとの思いに負け、こうして話し込んでしまうのだった。 机上の納品書に判を押しながら、悠人もそんな菜々美の話に、いつも笑顔でうなずいていた。アニメの話がひと段落ついた所で、菜々美が映画の話を切り出してきた。
「実家からまた送ってきたんですよ、優待券」
「ほんと、よく送ってきてくれるよね、菜々美ちゃんのお母さん」
「民宿組合からよくもらうんですよね。で、よかったらなんですけど……悠人さん、また一緒に行ってもらえませんか」
「そうだね……次の連休あたりになら」
「あ、ありがとうございます!」
菜々美が嬉しそうに笑った。
* * *コンビニに入った悠人は、ハンバーグ弁当と味噌汁、コーラをカゴに入れてレジに向かった。
家のすぐ近くにあるこのコンビニの店長、山本とはここに越してきた頃からの付き合いだった。「奥さんが留守だと大変だね。弥生〈やよい〉ちゃんは今、東京だったよね」
「ええ、池袋の方に行ってるそうです。あさってには帰ってきますけど、また遠征話で盛り上がりそうです……って、だから嫁さんじゃないですから」
「あはははっ。早く結婚しちゃいなよ、あんたたち」
「こんな40前のおっさんなんて、20歳の弥生ちゃんにはかわいそうでしょ。人生倍も違うんですよ」
「あらそう? でも弥生ちゃんの方はまんざらでもないんじゃない?」
「勘弁してよ、おばちゃん……」
* * *悠人は部屋の7階まで、健康の為にいつも階段を使っていた。このマンションに越してきて10年、毎日続けているおかげで、階段を上る足取りは40前とは思えないほど軽やかだった。
隣の弥生ちゃんは東京遠征、しばらく家も静かだな……そう思いながら7階に近付いた時、悠人は人の気配を感じた。「……?」
過疎マンションのこの階には、悠人と弥生しか住んでいない。
気のせいか? そう思いながら廊下を歩いていくと、悠人の部屋の前で座っている少女の姿が目に入った。「え……」
いかんいかん、アニメの見過ぎで妄想がここまで来たか。
一度足を止めた悠人は、ひと呼吸入れて再び玄関に目をやった。幻覚ではない。確かにそこに少女がいた。
ショートカットの黒髪、赤のダウンジャケットに薄紅色の手編みマフラー。そして黒のリュックを背負ったその少女の横顔には、どこか懐かしい面影を感じた。
「……小鳥?」
悠人がそうつぶやいた。その声に振り向いた少女は、悠人の姿に大きな瞳を輝かせた。
「悠兄ちゃん!」
そう叫ぶやいなや、立ち上がった少女は悠人に飛びついてきた。
「え? え?」
いきなり抱きつかれた悠人が、思わず声を漏らす。しかし混乱する頭の中で今、少女が言った言葉がこだましていた。
――悠兄ちゃん――
俺をそう呼ぶ人間はこの世でただ一人。やっぱりこいつは小鳥だ。
「悠兄ちゃん! 久しぶり!」
過疎化しているマンションに、少女の声はよく響いた。なんてテンションだ、この娘は……そう思いながら悠人は、少女の両肩をつかんで離し、
「なんで小鳥がここにいる」
そう言った。しかし少女はそれに答えず、キラキラ光る瞳で悠人の顔を見て、再び抱きつき頬ずりしてきた。
「やっと会えた! 小鳥、ずっと会いたかったんだから!」
「会いたかったってお前、学校は」
「小鳥はめでたく高校卒業。昨日卒業式だったんだよ。それでね、どうしても卒業旅行がしたくって、お母さんに無理言ったの」
「卒業旅行……と言うことは小鳥、大学は?」
悠人の問いに、小鳥が照れくさそうにVサインをした。
「無事合格、4月から花の女子大生です」
その言葉に、悠人が安堵の表情を浮かべた。
「そうか、合格したのか、よかった……よく頑張ったな、小鳥」
悠人が小鳥の頭を撫でる。その仕草に、小鳥が顔を真っ赤にして微笑んだ。
「にしても早いな。最後に会ったのは5歳だから、あれからもう13年も経つのか」
「お母さんも賛成してくれたんだ、卒業旅行。小鳥、嬉しくて興奮しっぱなしだったんだ」
3月とはいえまだまだ寒い。それにいくら過疎マンションでも、玄関先での会話はマナー違反だ。とにかくここではと、悠人が小鳥を家に入れた。
「悠兄ちゃんのお家、なんか緊張しちゃうね。おじゃましまーす」
靴を脱いだ小鳥が、そう言って部屋に入ろうとした。その小鳥の腕を悠人がつかむ。
「この部屋に入るからには、お前にもルールを守ってもらうぞ」
悠人はそう言って小鳥を洗面所に連れていき、うがいと手洗いをさせた。
「風邪、まだ流行ってるからな」
「悠兄ちゃん、お父さんみたい」
台所の先に和室があり、悠人は小鳥と入っていった。
「その辺に適当に座っていいよ。ところで小百合〈さゆり〉……母さんは元気にしてるのか?」
「うん、元気元気すこぶる元気。母さんも今旅行中なんだよ。女一人旅」
「そうか、元気ならまあいいや。で小鳥、その卒業旅行っていつから行くんだ? 友達と海外にでも行くのか?」
「違うよ。小鳥の旅行、もう始まってるよ」
「え?」
「小鳥の卒業旅行はここ。悠兄ちゃんのお家」
「……は?」
「そして今から、悠兄ちゃんに重大発表があります」
「ちょっと待て、ここが旅行ってなんの」
「はいこれ」
聞く耳持たない小鳥が、一枚のDVDを悠人に突き出した。
この勢い、母親と全く同じだ。そう思いながら受け取った悠人は、デッキにDVDを入れた。「……」
なぜかハリウッド映画会社のオープニングが流れ、その後画面にアニメ「魔法天使〈マジック・エンジェル〉イヴ」のフィギュアが映し出された。
そして聞こえる懐かしい声。小百合だった。「悠人―、ひっさしぶりー! 元気してるー? 悠人の永遠のアイドル、水瀬小百合〈みなせ・さゆり〉ちゃんでーす!」
相変わらずの元気な声。悠人の顔がほころんだ。
画面はイヴのフィギュアから動かない。時折画面の端に、白い指が意地悪そうに入ってくる。「とまあ、出だしの挨拶はこれぐらいにして……ゴホンッ。悠人は今、小百合の顔を見たいと思ってるよね? でもでも悠人と離れてはや10年、流石の小百合も非情な時の流れには勝てず……まぁ美貌は健在なんだけどね。小鳥と相談してね、悠人の大切な初恋の夢を壊さない為、今回は声だけのメッセージにしました」
確かにそうだ。しばらく会ってないから忘れていたが、俺と小百合は同い年なんだ。
小百合ももう、そんな年か……感慨深げに悠人がうなずいた。「今悠人の隣にいる小鳥は、艱難辛苦を乗り越えて、念願叶って見事希望の大学に合格しました。悠人も気になってたと思うけど、小鳥の受験の邪魔しないって約束で、この一年連絡禁止にしてたから、きっとやきもきしてたでしょうね。でも悠人、あんたの協力もあって、小鳥は無事合格出来ました。ありがとね。
その小鳥に私、ひとつだけ何でも望みを叶えてあげるって言ったの。そして小鳥が出した望みがこれ。悠人、よーく聞くのよ。『私、悠兄ちゃんのお嫁さんになりたい』って」
「…………は?」
「悠人。あんた私たちが引越しする時、小鳥と約束したらしいじゃない。小鳥が大きくなったら結婚してあげるって。小鳥はね、ずっとその約束を忘れずに頑張ってきたんだよ」
「ちょっと待て、あれは小鳥が5歳の時の話だぞ」
「だから私は母として。可愛い娘の一途な想いに報いてあげたくて、今回の旅行に賛成しました。私もちょうど、温泉旅で女を磨きなおしたいって思ってたところだったし。今から私は陸奥〈みちのく〉一人旅、小鳥は浪速〈なにわ〉一人旅」
「なんだそれは。うまいこと言ってるつもりか」
「だけどもちろん、悠人もいきなり小鳥と結婚って言われても、はいそうですかとはならないよね。悠人は今でも小百合一筋、分かってるよ。小鳥から愛を告白されても戸惑うでしょう。だから悠人、小鳥にはひとつだけ条件をつけました。
今日から3ヶ月の期限付きです。それまでに悠人の心をつかめたならOK、もし3ヶ月経っても悠人の心が動かなかったら、その時は諦めて帰ってきなさい、そう言ってます。だから悠人、しばらく小鳥の面倒みてやってね。そして悠人の意思で、小鳥を選ぶかどうか、決めてあげてほしいの。一人の女の子として」「あ、あのなあ……」
「でも悠人、根性いれて小鳥と過ごしなさいよ。恋する女は強いからね。あ、それと小鳥、小鳥も頑張るんだよ。悠人は母さん一筋だけど、母さんの遺伝子を持ったあなたならだいじょーぶ。年の差なんて関係ない、恋する女は誰にも負けないからね。じゃあそういうことで悠人、小鳥、頑張ってねー」
好き勝手言うだけ言って、DVDは終わった。
「何の冗談だ、これは……」 この40年、幼馴染の小百合〈さゆり〉以外に心を奪われたことのなかった魔法使いの俺に今、こいつは何を言った? アニメにしてもクレームものだぞ。 幼馴染からのとんでもない話に、悠人〈ゆうと〉の頭は混乱した。その悠人に、小鳥〈ことり〉が背後から抱きついてきた。 さっきとは違う感覚。自分との結婚を望む少女の抱擁に、悠人が顔を真っ赤にして小鳥を振りほどいた。「待て待て待て待て、冗談にしても質が悪い。エイプリルフールもまだ先だ」「大好き」「人の話を聞けえええっ」「聞いてるけど……あ、ひょっとして悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、好きな人とか付き合ってる人とかいるの? お母さん以外に」「いや、そんなやつはいないが……」「よかった、なら小鳥にもチャンスあるよね。3ヶ月の間に小鳥の想い、いっぱい伝えてあげるからね」 悠人の混乱ぶりを全スルーして、小鳥がそう言って無邪気に笑った。 * * * 時計を見ると22時をまわっていた。「もうこんな時間。ご飯まだだよね、ごめんね」 そう言って小鳥は、悠人が買ってきたコンビニ弁当を電子レンジに入れた。「悠兄ちゃん、こんなのばっかり食べてるの?」「腹が膨らめばなんでもいいんだよ、俺は」「そっかぁ……やっぱり男の一人暮らしはダメだね。これからは小鳥が毎日、おいしいもの作ってあげるからね」 そう言って小鳥は、リュックからパンを出した。「そういうお前はそれなのか」「うん。今日はバタバタすると思ってたから」 悠人がそのパンを取り上げる。「育ち盛りがこんなんでいい訳ないだろ。これ食べろ」 そう言って、レンジから出した弁当を小鳥の前に置いた。「でもこれは、悠兄ちゃんのお弁当で」「俺は腹が膨らめば何でもいい、そう言っただろ。お前こそしっかり食べないと。色々とその……栄養偏ってるみたいだし」 と言いながら、思わず胸に視線をやってしまった。それに気付いた小鳥が赤面し、慌てて胸を隠す。「こ、これはまだ、まだ育ってる途中だから!」「いいから食べろ。明日は土曜で休みだけど、それでももうこんな時間だ」「じゃあ、ここにいてもいいの?」「いいも何も、もう来てしまったんだ。嫁さん云々はともかくとして、せっかくの卒業旅行だろ? いいよ、しばらくいても」「ありがとう、悠兄ちゃん!」 そう言って小鳥がま
悠人〈ゆうと〉と小鳥〈ことり〉の母、水瀬小百合〈みなせ・さゆり〉は物心ついた時からいつも一緒だった。 閑静な住宅街にたたずむ一軒家。それが悠人の生まれ育った家だった。その隣に二階建てのハイツがあった。 電機メーカー工場の社宅。そこに小百合は住んでいた。 二人はいつも一緒だった。互いの家を行き来し、一緒にいることが当たり前だった。 物静かで運動音痴、いつも家で本を読んでいる悠人とは対照的に、小百合はいつも元気に走り回る少女だった。 言いたいことをはっきりと口に出す小百合と、いつも周りを気にして、自分の思いを口にしない悠人。そんな相反する二人は、同じ年にも関わらず、小百合が姉で悠人が弟、そんな奇妙な関係の中でバランスを保っていた。 * * * 小学校に入ると、朝の弱い悠人を起こしに、毎日小百合は迎えに来るようになった。 赤と黒のランドセルが仲良く並んで歩く姿は、そのまま6年間続いた。 しかしそれが悠人のいじめにつながった。 活発でクラスの中心になり、男子からも人気の高かった小百合と一緒にいる悠人は、当然のように男子生徒の嫉妬の対象となった。クラスの男子から「いつも女と一緒にいる泣き虫」とバカにされる様になった。 逆らったりすると余計にいじめられる、そう思い、悠人はその中傷を黙って受け入れていた。クラスの違う小百合からそのことを問いただされることもあったが、そのことについて語ろうとはしなかった。 悠人は自分にコンプレックスを持っていた。運動も出来ず、持病の喘息の発作も定期的に起こり、ある意味いじめの対象になっても仕方ない存在だと思っていた。 そんな自分と一緒にいてくれる小百合のことが、本当に好きだった。異性としてはまだ意識してなかったが、彼にとって一番必要な、大切な存在だった。だからこそ小百合に、彼女が原因でいじめられていると告げることは出来なかった。心配もかけたくなかった。 * * * 悠人は自然と、そんな現実から自分を守る習性を身につけていった。きっかけは小百合と、小百合の父と三人で行ったファンタジー映画だった。 日常生活においてパッとしない少年が、ある事件を境に魔法を使う能力に目覚め、仲間を集める旅に出て、世界を守る為に魔物と戦う物語。その世界観に、悠人は夢中になった。 それから悠人は、その類の書物をむさぼるように読
あの歌が聞こえる。 まどろみの中、その優しい歌声に悠人〈ゆうと〉がゆっくりと目を開けた。「小百合〈さゆり〉……」 歌声の主は小百合の一人娘、小鳥〈ことり〉。(小百合そっくりだな……) 小鳥は台所で朝食の準備をしていた。 そういえば昨日から、小鳥が家に来てるんだったな……そのせいか。あんな夢を見たのは……悠人の頭が徐々に覚醒してくる。 * * * ゆっくりと起き上がり、机の上の煙草に手をやり、火をつけた。その気配に気付いた小鳥が、勢いよく部屋に入り悠人に抱きついた。「おはよー、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「わたったったったっ……待て待て小鳥、火、火っ……」「だめだよ悠兄ちゃん、寝起きにいきなり煙草吸ったりしたら。寝起きにはまず水分摂らないと。癌になる確率が上がるんだからね」 どこでそんな知識を仕入れてるんだか……大体癌のことを言い出したら、煙草そのものが駄目だろうに。 そう思いながら煙草をもみ消す。「あーっ、そうだった!」 いきなり小鳥が大声を上げた。「なんだどうした」「悠兄ちゃん、なんで隣の部屋に移ってたのよ。起きたら隣に悠兄ちゃんがいないから、寂しくて泣きそうになったんだからね。朝から半泣きで探し回って、最っ低ーな目覚めだったんだから。プンプン」「……プンプンって擬音を口にするやつ、初めて見たぞ……まぁあれだ、小鳥。寂しいかもしれないけど、同じ屋根の下なんだから我慢してくれ。いくら小鳥でも、流石に18の娘と一緒には寝れんよ」「結婚するんだからいいじゃない。それに歳も18だし、条令もクリアしてる訳なんだから」「条令ってお前、何の話を……この話は長くなりそうだな。朝ごはん作ってくれたんだよな、食べようか」 話をかわされ、少し不満気な表情を浮かべた小鳥だったが、「だね。まずは食べよっか」 そう言って立ち上がった。 * * * 顔を洗い、歯を磨いて椅子に座る。小鳥が手を合わせているので悠人もそれにならった。「いっただっきまーす」 なんで朝からこんなに元気なんだ。こんなところまで母親ゆずりなのか……苦笑しながら悠人が食パンを口にする。「そうだ悠兄ちゃん。悠兄ちゃんには朝から言うことてんこ盛りだよ」「なんだ、何でも言ってみろ」「威張ってもダメ。悠兄ちゃん、冷蔵庫の中に物なさすぎ。コーラとお茶だけってどう言うこと
「さ……流石に買いすぎだろ……」 ここに越してきた時でも、ここまで買い物をした記憶はないぞ。 そう思いながら悠人が鍵を開けようとした時、ドアの隙間に挿してある一枚の紙に気付いた。 宅配便の不在表で、家に入り連絡すると、15分ほどして業者が荷物を持ってきた。荷物はダンボール二箱と、細長く厳重に梱包された筒状の箱だった。 ダンボールには小鳥の服、その他もろもろの日用品が入っていた。「女子にしては少ない荷物だな。まぁ3ヶ月だからこんな物か……で、これは何なんだ?」「ふっふーん、これはね」 そう言って小鳥が筒状の梱包を外していくと、中から三脚と望遠鏡が出てきた。「結構高そうなやつだな」「これは小鳥がバイトしまくって買った宝物。悠兄ちゃんの天使の次に大切なものなんだ。悠兄ちゃんと一緒に星が見たかったから、これは持っていこうって決めてたんだ。でもね、そのつもりだったんだけど…… ここって星、ほとんど見えないんだね」「昔はもう少し見えてたんだけどな、街が明るくなりすぎたから。過疎ってきてるとはいえ、これでも都会なんだよな。 ま、3ヶ月ここにいるんだから、そのうち山にでも連れていってやるよ」「楽しみにしてるね。でも悠兄ちゃん、春先でこんなんだったら、夏なんて見える星ないんじゃない?」「間違いなく見えるのは、月ぐらいかな」 その言葉に反応した小鳥が、「月って言えば……」 そう言ってダンボールの中に手を入れ、冊子のような物を取り出した。「じゃーん!」「だから……じゃーんなんて擬音、リアルで口にするやつはいないぞ……ってこれ」 それは月の土地権利証書だった。「お前、月の土地持ってたのか」「悠兄ちゃん、ここここ。ここ見てよ」 小鳥が指差すそこは権利者の欄だった。そこには悠人の名前が記載されていた。「俺の土地なのか?」「悠兄ちゃん、小鳥に約束してくれたでしょ? 大きくなったら小鳥と結婚して、月で一緒に暮らしてあげるって。だから小鳥、未来の旦那様の名義で買ったんだ」「なんとまぁ、5歳の時の約束をしっかり覚えていたとはな。ちょっと待ってろ」 悠人は笑って立ち上がり、洋間に入っていった。ごそごそと音がしてしばらくすると、小鳥が手にしているのと同じものを持ってきた。「ほら」「え……?」 悠人が開いたその権利証書には、小鳥の名前が記載さ
悠人〈ゆうと〉と川嶋弥生〈かわしま・やよい〉の出会いは、二年ほど前になる。 大学入学を機に悠人の隣室、702号室に越してきた弥生。 入居の挨拶で悠人の家に来た時、焼き物で有名な滋賀県の信楽〈しがらき〉から越してきたことを弥生は話していた。 眼鏡の似合うポニーテールの女の子。どこか垢抜けていない、素朴で純粋そうな子、と言うのが悠人の印象だった。 隣同士なので顔を合わせることも少なくなかったが、互いに挨拶をする程度で、それ以上の関係になるとはお互い思ってもいなかった。 * * * それから一年近くたった冬のある日。 悠人が仕事から帰ってくると、玄関前で鞄の中をひっくり返し、途方に暮れている弥生を発見した。「……」 こんな鉄板イベント、実際見ることになるとは。 鼻の頭を真っ赤にし、弥生が溜息をもらす。相当長い時間、そうしているように見受けられた。 白いコートタイプのダウンジャケットの前を開け、紫のハイネックが見え隠れするそこから、大きな胸であることが見てとれた。「あの……こんばんは、えーっと……お隣さん?」 悠人は弥生の名前を覚えていなかった。 人付き合いに無頓着な悠人にとって、他人の名前を覚える行為は特に必要ではなかったからだ。会話をすることもなく、「お隣さん」で十分だったのだ。 悠人の声に顔を上げた弥生。その瞳は潤んでいた。「お隣さんって……酷いじゃないですか工藤さん。一年も住んでるのに私の名前、覚えてくれてないんですか? 私は弥生、川嶋弥生です」(ええっ? そっち? 引っ掛かるとこ、そっち?) そう思いつつ、悠人が頭を掻きながら言った。「あ、いやすいません、川嶋さん……じゃなしに、こんな寒い中、こんなところで何してるんですか」「あ、そうでしたそうでした。実は鍵を無くしてしまったみたいで、家に入れなくて困ってたんです。くすん」(……くすんって擬音を口にするやつが、リアルに生息していたとは……)「スペアの鍵は?」「家の中でお休み中です」「それはそれは、意味のないスペアで」「ううっ、酷いお言葉……」「いつからこうしてるんですか?」「一時間ほど……」「凍死しますよこんな日に。お友達の家とか、助けてもらえるところはないんですか?」「友達の家も結構遠くて……というかもう無理、動けないです。携帯の充電もきれてま
「BMB……?」「はい、サークル名です。ボーイ・ミーツ・ボーイの略でBMB。そこで絵師をしております。窯本〈かまもと〉やおいはペンネームであります」「ボーイ・ミーツ・ボーイ、と言うことは……」「はい、BLであります! びしっ!」 にんまりと笑った弥生〈やよい〉が敬礼する。「……びしって擬音、普通は口にしないと思うけど」「私は中学の頃から、ヲタ道を日々研鑽してまいりました」(いやいや、世間にヲタ道なんて言葉はないから)「そして高校でBMBと出会い、その本拠地のある大学に入った次第であります。 我々の目的はただひとつ、いつかこのヲタ道を、混迷の闇をさまよう日本再生の柱にすること。BMBはその為に日々戦う、武闘派集団なのであります。びしっ!」 弥生のマシンガントークに、悠人〈ゆうと〉が呆気にとられる。「そして思うに悠人さん、あなたにはヲタとしての血が脈々と流れているとお見受けいたしました。ゴッドゴーレムの自作とは、かなりレベルの高いヲタ値……言わばそう、あなたこそヲタ道の純血派なのです!」「じゅ……純血派?」「そうです! 悠人さんは遡ること数十年、ヲタたちが市民権を得ておらず、社会から孤立し、なおかつ活動出来る場が少ない草創の時代よりヲタ道を歩まれてきた、正に勇者様。あなたのような勇者様がいなければ、今私たちがこうして闊歩〈かっぽ〉している世界は存在しなかったのであります!」「まぁ確かに……俺がこの世界に入った頃には、同人誌なんてものもほとんどなかったし、ヲタクの凶悪事件なんかもあったりしたからね。結構冷たい目で見られていたよ」「だしょだしょ!」「いや、ここは普通に『でしょ』でいいから」「悠人さんの世代に比べれば生ぬるいですが、これまで私も、それなりに疎外感なるものを感じながら生きてまいりました。 その孤高の戦いの中、いつか出会えるであろう真の勇者様をずっと心に思い描いていたのです。それがまさか、こんな近くにおられたとは……これは運命です! 私は今日、この日の為に
日曜の昼下がり。 小鳥〈ことり〉がベランダで、歌を口ずさみながら洗濯物を干していた。 いつも室内で干している悠人〈ゆうと〉にとって、ベランダが洗濯物でうまっていくのは新鮮な眺めだった。気持ちのいい風が入り込む中、悠人は煙草を吸いながら小鳥が干すのを眺めていた。 * * *「悠兄〈ゆうにい〉ちゃんって、いつも同じ服を着てるよね。どうして?」 昨日の夜、小鳥に聞かれたことを思い出す。「ああこれな。俺は下着も服も靴も、同じものしか持ってないんだ」「……どういうこと?」「小百合〈さゆり〉から聞いてないのか? 色んな服があったら着る時に悩むだろ? そんなことで悩むのがバカらしいから、全部同じにしてるんだ。年に一回、下着も服もセットにしてまとめ買い。合理的だろ?」「うーん、そんな人に会ったの初めてだから分からないけど……でもね、その日の気分で服を変えたりするのって楽しくない? 着る服で気分が変わることもあるし」「よく言われるんだけどな。なんかそう言うのって苦手と言うか、興味ないんだよな」「それに悠兄ちゃん、真っ黒だし」「だな」「ティーシャツも黒、ジーパンも黒、パンツも靴下もワイシャツも靴も、ジャンバーまで全部黒。どこかの危ない人みたい」「落ち着くんだよな、黒って」「じゃあ小鳥が今度、悠兄ちゃんに服をプレゼントしてあげるよ。小鳥が買ったら悠兄ちゃん、着てくれる?」「うーん……会社の子にも同じこと言われたけど、その時も結局返事出来なかったんだよな。着るかどうかの自信がないから」「じゃあ悠兄ちゃん、気に入らなければ着なくていいってことなら、買ってもいい?」「いやまぁ……買ってくれるのは嬉しいけど、でも俺にプレゼントしても甲斐がないぞ。自分の服を買った方がいいと思うけど」「大丈夫だよ。小鳥にはお母さんからもらったあらゆるデータがあるから。悠兄ちゃんが着たくなる服、探してきてあげる」「……お前は一体、小百合から何を吹き込まれてるん
「なるほど……」 紅茶をひと口飲んだ弥生〈やよい〉が、大きくうなずいた。「悠人〈ゆうと〉さんの幼馴染の娘……えへっ、えへへへへっ」「……なんか知らんが、また変な妄想をしているようだな」「いえいえ悠人さん。私はただ、新しいヲタの属性が生まれた瞬間に立ち会えたと喜んでる次第でして。これまで幼馴染や妹、委員長や後輩萌えは多く語られてきましたが、なるほどなるほど……確かにヲタも30代40代が増えてきて、妄想にも限界が生じてきた昨今……その中での幼馴染の娘属性とはあまりにも必然でしかも斬新……」 目が爛々と輝いていく。「しかも幼馴染鉄板の体育会系ボディ! スレンダーかつ微乳、我々萌豚の妄想が具現化したようなキャラは正に至福! えへっ、えへへへへっ」 舐めまわすようなその視線に、小鳥〈ことり〉が思わず胸を隠した。「弥生ちゃん、おっさんの目になってるぞ」「ぐへへへへっ、お嬢ちゃん可愛いねぇ」「……悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、弥生さんって」「ああ、悪い人じゃない。いい人なんだ、いい人なんだけど……何と言うかその、確か変態淑女とか自分で言ってたな。人類は皆ヘンタイだから恥ずかしくない、とかなんとか……自分に正直であり続けたら、こうなってしまったらしい」「ひゃっ!」 小鳥が叫ぶ。いつの間にか弥生が近付き、太腿を撫でていた。「おおっ、この引き締まった太腿……この太腿は陸上部部長クラスとお見受けしました。触ってもいいですか小鳥さん。て、もう触ってますけど」「いい加減にしろ」 そう言って、悠人が再び弥生の額に人差し指を突きつけた。「びっくりした……でも弥生さん、当たってますよ。私中学の時、陸上部の部長でした」「種目は短距離」「そう、短距離でした」「やはり……どこまでも我々を裏切らないお方。舐めてもいいっすか」 ゴンッ! と弥生の頭に衝撃が走る。悠人のゲンコツだった。 小鳥は赤面しながら笑った。「悠兄ちゃ
朝。 何かがまとわりついている感覚に、悠人〈ゆうと〉が目覚めた。「げっ……」 ネグリジェ姿の沙耶〈さや〉が布団に潜り込み、悠人にしがみついていた。「また……お前か……」 沙耶を起こそうと体を向けると、胸元に視線がいった。ネグリジェがはだけ、沙耶の微乳があらわになっていた。「お、おい、起きろ沙耶」 赤面した悠人が、慌てて沙耶の肩をゆする。「う……うーん……」「ひっ……さ、沙耶……」 甘い匂いに動揺する。 沙耶の小さな唇が、悠人の耳元をかすめた。「ゆう……と……」 耳元に沙耶の声。顔には沙耶の金髪が、足には細い足が絡みつく。 ガンガンガンガンッ! 突然頭の上に、金属音が鳴り響いた。慌てて見上げると、小鳥〈ことり〉がフライパンとお玉を持って立っていた。「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、おはよう」 意地悪そうに、ニンマリと笑う。「いや、これはその……違うんだ小鳥」「最高のお目覚めだね、悠兄ちゃん」「……この状況でそれを言うか? 知ってたんなら助けてくれよ」「だってサーヤ、今日引越しだからね。最後の夜だし、悠兄ちゃんを貸してあげようと思って」「貸してってお前……それは自分の持ち物って前提じゃないか」「ほらサーヤ。そろそろ起きないと、引越し屋さん来ちゃうよ」「ん……」「おはようサーヤ。よく眠れた?」「おはようございます、小鳥&hellip
「これはまた……面妖な味だな」 菜々美〈ななみ〉の淹れたコーヒーを口にして、沙耶〈さや〉がつぶやく。「北條さん、コーヒー駄目だった?」「いえいえ、違うんですよ白河さん。このサハラ砂漠、インスタントコーヒーなるものを飲んだことがないんですよ。なにしろお嬢様らしいですから。胸は平民以下ですけどね、おほほほほほっ」「そう言うお前は、こういう平民飲料水で無駄な色香を育てた訳だな」「二人ともほんと、何がきっかけでも会話が弾むよね」 小鳥〈ことり〉が笑う。菜々美もつられて笑った。「みなさんほんと、楽しいですね」「あははっ……でも白河さん、想像してた通りの人ですね」「私ですか?」「はい。悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、よく白河さんの話をするんです。その時の悠兄ちゃん、いつも楽しそうで。だから白河さんに会えるの、すごく楽しみだったんです。やっと今日会えて、悠兄ちゃんがあんな顔をする理由、分かった気がしました」「どんな風に分かったのか、聞いてもいいですか?」「白河さん、きっとすっごく優しくて、気遣いの出来る人なんだと思います。そして多分、どんなことにも一生懸命なんだろうなって」「……すごく壮大な分析ね」「私も白河さんのお話は伺ってましたが、確かにその時の悠人〈ゆうと〉さん、優しい顔をしてました。私結構、嫉妬全開でしたよ」 弥生〈やよい〉が入ってくる。「しかも白河さん……なかなかどうして、結構なものをお持ちなようで」 弥生の視線に、菜々美が慌てて胸を隠した。「な、なんですか川嶋さん、その目怖いですよ」「いえいえ、男所帯の町工場に咲く一輪の花。それを想像するに私、次の作品のいい刺激になると言うかなんと言うか……とりあえず白河さん、その胸をば少々触らせてもらっても」 ガンッという音と共に、弥生が頭を抑える。沙耶のトレイ攻撃だった。「ぷっ……」 菜々美が再び吹き出した。「あははははははっ」
(あれから気まずくなるかなって思ってたけど、悠人〈ゆうと〉さん、思ったより自然に接してくれて……嬉しいような寂しいような…… あれ以来告白してないけど、それでも、悠人さんの一番近くにいるのは私だって思ってた。だから変な安心感があったんだけど……最近、悠人さんから女の子の話をよく聞くようになって……私、このままでいいのかな……) コーヒーを飲み干し、悠人が立ち上がる。「よし。じゃあもうひと踏ん張りするね」「じゃあ悠人さん、頑張ってくださいね」「菜々美〈ななみ〉ちゃんもありがとね。うまくいけば、あと2時間ぐらいで片がつくと思う。菜々美ちゃん、いつでも帰っていいからね」「私、今日は最後までいます。いさせてください」「いてくれるのは嬉しいんだけど。菜々美ちゃんは大丈夫なの?」「勿論です。悠人さん一人に大変な思いはさせられません。何もお手伝い出来ないけど、せめて完成するのを見届けさせてください」「分かった。ありがとう、菜々美ちゃん」「それに……こうして一緒に、二人きりでいられるのも久しぶりですから……」 そう言うと菜々美はカップを持ち、足早に事務所に戻っていった。 * * * 菜々美は悠人の椅子に座り、膝を抱えて考え込んでいた。(思わずあんなこと言っちゃった……今までずっと自然に振る舞ってたのに、なんであんなこと言っちゃったんだろう……焦ってるのかな、私……) 菜々美は悠人の変化に動揺していた。最近の悠人はこれまでよりも優しく、強く、誠実さを増しているように感じる。それはまるで、人生において目標を見つけたかのような変化だった。 明らかに悠人は変わった。そしてその原因が、最近悠人が口にする「小鳥〈ことり〉」によるものなのか……そのことを考えると、言いようのない不安に襲われた。(幼馴染の子供、小鳥ちゃんか……) 時計を見ると21時をまわっていた。「そうだ、うっかりしてた!」
飲み会が終わり。 菜々美〈ななみ〉は小雨の繁華街を、一人歩いていた。(悠人〈ゆうと〉さん、私のことをどう思ってるんだろう……やっぱり妹なのかな……) そんなことを考えながら信号が変わるのを待っていると、サラリーマン風の二人が近寄ってきた。「君、今一人?」「よかったら一緒にどう?」 明らかに酔っている二人が、菜々美の肩を抱いてきた。「あ、あの……やめてください」「いいじゃないの。どうせこうして声かけられるの、待ってたんでしょ」「楽しいからさ、一緒に飲みにいこうよ」 肩を抱く手に力を込める。 男に免疫のない菜々美の足が、がくがくと震えてきた。助けを求めたいが声も出ない。「あれ? ひょっとして震えてる? 大丈夫だよ、俺ら優しいから」 涙があふれてきた。「はいはいウブな真似はもういいから。行こ行こ」「……菜々美ちゃん?」 聞き覚えのある声がした。菜々美が顔を上げると、そこに悠人が立っていた。「ゆ……」 悠人の顔を見た瞬間、緊張感が一気に解け、その場にへなへなと座り込んでしまった。「うっ……」 口に手を当てると同時に、涙が頬を伝った。「ほんとに泣いちゃったよ」「てか、お前誰だよ」「何してるんだ……」「何だお前、喧嘩売るってか」「何してるんだっ!」 悠人が傘を投げ捨て、今にも飛び掛りそうな勢いで二人を睨みつける。 その勢いに、二人が一瞬後退る。しかしすぐに態勢を戻し、悠人に突っかかっていこうとした。「ふざけるなお前ら! 消えろ!」 悠人の大声に、通行人たちが足を止めて見物しだす。周りに人が集まってきたことに気付いた二人は、「けっ……格好つけてるんじゃねぇぞ!」 そう捨て台詞を残し、その場から去っていった。「……」 通行人たちも立
その日は朝から、冷たい雨が降っていた。 * * *「今日は早めに帰れるから。明日は沙耶〈さや〉の引越しで忙しいだろうし、今日は三人でゆっくりしよう」「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、何時頃に帰れそうなの?」「明日出荷するやつも昼には片付きそうだし、トラブルがなければ18時にあがれるよ」「そうなんだ。私も18時あがりだから、ゆっくり出来るね」「沙耶は今日、どうするんだ?」「今日はネット三昧だ。ブログの更新も止まってるからな。生存報告をしておくつもりだ。 それはそうと遊兎〈ゆうと〉、お前は何の仕事をしているのだ?」「金型工だ。部品を作る為の型を作ってるって言えば分かるかな。たい焼きを作る金属の型みたいなやつ」「ほほう。遊兎の仕事はたい焼きの製造か」「耳に残った言葉だけで理解するな。これでもうちの会社は、世界で認められてるんだからな。明日納品するやつも、アメリカの航空会社の部品なんだぞ」「へぇー。難しいことは分からないけど、すごいんだね」「あそこが満足出来る精度の物を作れる会社は、日本でも数えるほどしかないんだからな」「よく分からぬが、すごいと言うことは理解出来た。遊兎、仕事に励むがよい」「褒められた気が全くしないんだが……とにかく今日は早く帰るよ」 * * * 昼休み。 食後に菜々美〈ななみ〉と話していると、工場長が血相を変えて食堂に入ってきた。 そう言えば午前中、工場長が電話でやりとりしていたが、何かトラブルでもあったのだろうか。そう思いながら悠人〈ゆうと〉が尋ねた。「工場長、どうかしましたか」「工藤、ややこしい話なんだが……」 話はこうだった。 明日納品する商品の中で、先方が発注漏れしていた部品があったらしい。先方のミスなのだが、無理を承知で頼み込んできた。何とか明日の納品に間に合わせてもらえないかと。「それで、そ
風呂からあがると、沙耶〈さや〉も小鳥〈ことり〉の部屋に入っていった。何やらこそこそと話をしている。悠人〈ゆうと〉はあえて突っ込まず、「二人とも湯冷めするなよ」 そう言って風呂に入った。 小鳥が来てからというもの、悠人は毎晩湯につかっていた。浴槽に湯をはるのは年に一度か二度だったが、いつの間にかそれが習慣になっていた。 冷えた体で湯船に入った時の感覚は、確かに贅沢この上ない物だ。目の辺りに水で濡らしたタオルを置き、そのまま肩まで湯船につかる。(あさっては沙耶の引越しか……引越しの手伝いなんて、小百合〈さゆり〉が田舎に引っ越した時以来だな……沙耶がどんな家具を持ってくるのかも気になる……まさかプリンセスバージョンのベッドとか、持って来るんじゃないだろうな…… それと……ここしばらく小鳥をほったらかしだから、明日は早めに帰って、ゆっくり付き合ってやるか……) 湯船から出て、体を洗い出したその時だった。 勢いよくドアが開かれたかと思うと、小鳥と沙耶が乱入してきた。「どわああああああっ!」 悠人が前を隠して絶叫する。見ると二人とも、どこから持ってきたのかスクール水着を着ていた。「お、お、お前ら!」「悠兄〈ゆうにい〉ちゃーん、今日は二人でご奉仕してあげるねー」 沙耶は胸の辺りを両手で隠し、もじもじしていた。「お、おい小鳥……さ、さすがに少し……恥ずかしいのだが……」「だったらするなよ!」「可愛いから大丈夫だよ。胸の辺りにゼッケンつけて、平仮名で『ほうじょうさや』って書いたら完璧。悠兄ちゃんのストライクゾーンだよ」「意味不明だ小鳥!」「いいからいいから。さあ悠兄ちゃん、美
その時インターホンがなった。小鳥〈ことり〉がモニターを覗くと、弥生〈やよい〉の姿が見えた。「弥生さんだ」 小鳥がドアを開け、弥生を連れて戻ってきた。「悠人〈ゆうと〉さん、川嶋弥生、無事サークル打ち上げから帰還いたしました。二日ぶりであります、ビシッ!」 そう言って敬礼する。「いや、だから……ビシッって擬音はいらないと何度言えば」「いやー、しかしヲタ文化は奥が深いです。今回は別のサークルとの親睦会を兼ねていたのでありますが、そこにいたメンバーと熱く語っていく内に『ナイト・シド』の新しい魅力と方向性を発見した次第でありまして……やはりヲタも10人いれば10の見解があるものでして、それはもう新鮮で堪能出来たと言うかなんと言いますか…………ん?」 饒舌に語っていた弥生の目に、金髪のツインテール、小さな美少女の姿が入った。 弥生の顔が強張る。「な、な、な……悠人さん、なんですかこの、絵に描いたようなツンデレ幼女は」 警戒レベル5の面持ちで、弥生が沙耶〈さや〉を凝視する。「おいエロゲーお約束メガネ女。ひょっとしなくてもツンデレ幼女とは、私のことを言っているのか」 何故か沙耶も、臨戦態勢に入っていた。最初から毒全開である。「ほほう。メガネをお約束と言うからには、それなりに素養はお持ちのようですね。このシークレットブーツ愛用者」「ふん、貴様こそ分かっているのか無駄乳女。メガネは所詮、メインヒロインにはなれんのだぞ。よくてサブだ。死ぬまでその座に甘んじてみるか」「ツルペタ無乳未成熟女がなにやら吠えてますね。悔しかったらその発育不良な無乳を揉んで、発育の手助けでもしてあげましょうか」「おいおいお前ら、なんでいきなり喧嘩腰なんだよ」「悠人さん!」「遊兎〈ゆうと〉!」「は、はい……」
悠人〈ゆうと〉が帰宅すると、すでに食事の用意が出来ていた。 リビングでテーブルを囲んでいる小鳥〈ことり〉と沙耶〈さや〉。二人は仲良く談笑していた。「おかえりなさい、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん」「ああ、ただいま」「遅かったではないか。その労働の対価として、正当な報酬をもらっているのだろうな」「いやいやいやいや。帰って早々、そんなややこしい話はやめてくれ」 * * * 三人での食事は賑やかだった。沙耶は終始上機嫌だった。「小鳥、お前の料理の腕はなかなかのものだな。このような物を食べるのは初めてだが、うちのメイドに勝るとも劣らぬ腕前だ」「サーヤってば本当、お世辞うまいね」「いや本当だ。この……なんと言ったか」「オムライス」「そう、オムライスだ。ケチャップソースと卵のふんわりとした食感の絶妙なバランス、絶品だ。スープもうまい」「ありがと」「それになんだ、初めは驚いたのだが、この料理はケチャップでメッセージを伝えるという面白みもあるのだな」「悠兄ちゃんへのメッセージ、今度サーヤが書いてみる?」「本当か。お前はいいやつだな」「しかし……」 悠人が口を挟む。「沙耶へのメッセージはまぁいいだろう。『サーヤ』だからな。でも俺のこれはなんなんだ?」 悠人のオムライスには『LOVE』と書かれていた。「この歳でこれを食うの、ハードル高いぞ。メッセージが重すぎる」「いいじゃない。新妻のオムライスだと思えば恥ずかしくないでしょ。そうだ悠兄ちゃん、今度お弁当も作ってあげる」「絶対紅生姜でハート作るだろ」「あ、分かっちゃった?」「分からいでか。って、会社で見られたらドン引きされるわ」「ぶーっ、せっかく気合入れようと思ったのにー」「小鳥。それは恋人が作るお約束の
「……なんか最近、小百合〈さゆり〉の夢をよく見るな……」 目覚めた悠人〈ゆうと〉がそうつぶやく。 そして起き上がろうとして、腕にまだ小百合の感触が残っているのに気付いた。 何やらいい匂いもする。「なんだ……俺、まだ寝ぼけてるのか……」 視線を腕に移す。 そこには腕にしがみついている、ネグリジェ姿の沙耶〈さや〉の姿があった。「え……」「ん……むにむに……」「……うぎゃああああああああっ!」 悠人の絶叫に、小鳥〈ことり〉が飛び込んできた。「どうしたの悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「こ、これ……」「あーっ!」「ん……もう朝……か……遊兎〈ゆうと〉、小鳥……おはようございます」「おはようじゃない。お前、なんでここで寝てるんだ」「何を言う。お前は私の下僕なのだ、夜伽〈よとぎ〉は当然だろう」「な、な、何が夜伽〈よとぎ〉だお前!」「朝から大声を上げるでない。全く……これだから庶民は困る。もっとこう、優雅に朝を迎えようとは思わないのか」「平穏な目覚めを破壊したのはお前だ」「まあ聞け。私は昨晩、生まれて初めての土地に足を踏み入れたのだ。見知らぬ土地で初めての夜。心細くなって当然であろう。大体、一人で寝かせるお前が悪いのだ」「なんだその理屈は。心細いも何も、壁一枚隔てた隣の部屋なんだ。問題ないだろ」「ビルがいない」「……ビル?」「うむ。クマのぬいぐるみ、ビルだ。やつはまだ実家にい